記憶・母子里 -41.2℃

北海道聞の平成25年9月15日の朝刊一面で、幌加内町母子里(もしり)の限界集落に関する記事が掲載された。現在の人口は36人になったという。戻ってきた若者達が作り上げた「天使の囁きを聞く集い」も休止に追い込まれてしまったようだ。若いとき、1974年4月より6年間住んでいたので、とても懐かしくもまた悲しくなった。あの母子里が消えるのかも知れない。撮りためたスライドの中にあの寒さの記録が残されていた。当時の母子里の寒さのことを、しばらく紹介します。[高瀬裕二]

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■スライドに残した昭和49年(1974)4月~昭和55年(1980)3月までの6年間の寒さの記録

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  • 正面玄関、野ざらしの温度計
  • 午前中でもマイナス30℃以下はざら、なかなか気温が上がりません

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■ 昭和52年、昭和53年の冬は軒並みマイナス41℃を記録

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  • よく晴れた日の日の出の頃に最低気温となります。

  • 夜中に木が凍裂する音が響きます。
  • 母子里は標高200mの盆地なので放射冷却により冷気が底に貯まるのです。
  • 太陽は名寄よりの山より顔を出します。

  • マイナス41.2を記録した日の夜明け

M-sun9

  • 山の端より光が差し込み辺りが突然、明るくなります。

  • 高校生は深名線・北母子里発 7時10分のジーゼルに間に合うように、足早に行く。

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■ 理科室の最低温度計も記録を残しています

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  • 軒先だが撮影時にも水銀はマイナス40℃付近を示している。
  • 中の指標は今朝の最低温度がマイナス42℃近くまで下がったことを示している。
  • 正式な気温は北大演習林母子里作業所にて測定される。

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■ 昭和53年当時の北海道大学演習林母子里作業所と百葉箱  <1978>

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  • 昭和53年2月17日にマイナス41.2℃を記録した百葉箱

  • 北大農学部付属演習林で、水銀柱(ガラス管)の目視温度(氷点下41.2℃)が観測されました。

  • 百葉箱の内部

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■ 母子里の生活

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  • 断熱材の入っていない教員住宅、ビニールで窓を覆って寒さをしのぎました。でもすぐに破れます。
  • 枕元においた生まれたばかりの我が子のおしめも、一晩で凍り付きました。 

  • プロパンガスの調節器も凍り付き、ガスが出ないこともあり、5kgの小型プロパンを家用に購入。

M-kitchin

  • 石油ストーブの水蒸気が冷えて白い煙・氷となり、煙突からもくもくと白い煙となります。
  • 家まで道路が無いので、物置に200リットルの石油ドラム缶を10缶を備蓄します。(*_*;

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